楯 

             (1)  


  ベースが柔らかく響き、ピアノも終わりの章を奏でた。私の声に、アンプを繋いだギターが切々とかぶさり、ライトも絞られる。                     
 歌い終わった私は、こうべを垂れ、心の中で一つ、二つ、三つと数えた。バックの黒人ベース・マンが、小さく手を叩いていた。ピアニストもギター奏者も叩きだした。身体を揺すって聴いていた客も立ち上がり、手を叩いている。            
 スポットライトが再び私に当たった。顔を上げる。百人ほど入れるクラブのほとんどの客が、拍手をしていた。思わず込み上げてくるものがあり、マスカラを気にしながら、そっと眼の下を押さえる。 
  シカゴでも五指に入るブルースバンドと、世界で一番耳の肥えたお客に、私のデビューは認められたらしい。伴奏してくれた三人が、黒人特有の判りにくいジョークを囁き、ステージを降りていく。
 私はもう一度、深々と頭を下げた。
「サラ・サクラ!」
 初めての客なのに、私の名前を呼んでいる。指笛も鳴る。気がつくと、傍に花束を抱えたクラブ・マネージャーが立っていた。
「コングラチュレーションズ!」
 五十を越えた白人で、髭モジャの頬を押しつけ、祝福してくれた。
「サラ、評論家や音楽記者が待っている。行ってやれ。五番のテーブルだ」                     
 私は頷くと、もう一度頭を下げ、ステージを降りた。次の出番を待っていたギタリストが、首からハーモニカを吊って入れ代わりにステージへ出ていく。
  ボイス・トレナーのウイリーも、握手を求めてきた。師弟関係以上の、感情が込められている。私も強く握り返すが、そこに男と女の感情を意識して外す。彼なくして、ステージに上がることなぞ出来なかったのは確かだが…。             
 
 日本から逃げ出した私が、LA(ロスアンゼルス)でジャズボーカルのインストラクターに教わったのは二年前になる。しかし彼に習ったのは三ヵ月だけで、ミシシッピ州のホリー・スプリングへ行くことを勧められた。私の声とフィーリングが、ブルースに向いているという理由だった。躊躇はしなかった。異国の唄を歌うのに、その国の専門家の意見を覆すほどの才能を持っているとは思ってもいなかったから。
 あとになって考えると、LAのインストラクターは、歌うことよりも、ブルースのルーツを肌で感じさせたかったのだろう。紹介されたミシシッピのクラブで半年間歌ううち、大農場で働く黒人小作人の悲哀も、何となく分かるようになってきた。
 デルタ地帯特有の黒い土から、湯気のように立ち上る夏の熱気は、人間の思考能力を奪ってしまう。その日の疲れを癒すには、酒場でブルースに合わせ、身体を揺らす以外に方法が見つからないのか、虚ろな目で宙を睨み口ずさむ。
 しかしそうでない人間もいる。客で来ていたメンフィスのレコード・プロデューサーに、シカゴで勉強してみないかと誘われた。
ミシシッピから、テネシー州のメンフィスに至る『ブルース街道』の行き着く先がシカゴなら、願ってもない誘いと、私は渡りに船と飛び乗った。
 シカゴへ着き、紹介されたボイス・トレーナーのウイリーに、初歩から教えてもらった。ブルースの歴史、スピリッツ、背景、他の音楽への影響、現在、未来。そしてもちろん、歌唱方法にリズム。確かに私に合っている。
 私の喉の筋肉は、一般の人より相当発達していて強靭らしい。数時間歌い続けても平気だし、タバコの煙も気にならない。何故かと訊かれても、過去の仕事のせいだと、笑ってごまかすしかなかったが…。              
 
 ウイリーに促され、音楽記者や評論家が五、六人座っているテーブルへ近付いた。片言の英語なら話せるけど、今日はクラブの厚意で日本人の通訳が付いていた。     
「皆さんの評判は上々ですよ」 
 若い女性の通訳に囁かれた。席に着くなり、Tシャツにプレスのバッジを付けた金髪の男が訊ねた。
「サラ・サクラの名前の意味は?」
 私は目の前に置かれた、バーボンのジンジャー割りを一口含んで応えた。
「サラ・ヴォーンに敬意を表したのと、サクラは特別の花だから」
「特別とは?」
「日本には『桜は花に顕わる』と言う諺があります」
 ふだんは他の雑木に混じって目立たなかった桜の木も、ひとたび花を咲かせると、まぎれもなく桜であったことが分かる。そんな意味だが、私より少なくとも十歳は若い通訳に、この諺を正確に訳せたかどうかは分からない。
 中年の黒人記者に代わった。
「ブルースは生活感情の表現だと思うが、あなたは何を表現したいのか?」                
「虐げられた人たちの癒しに、きっかけを与えられたらと…」
「こんなに上手く歌えるのは、虐げられた過去があるからか?」 
「無いとは言えませんが、話したくない過去は誰にもあるものです。でも明日を見つめて強く生きれば、『イエス、ロード(神様)!』と叫ぶときも来ると思います」
 まわりの人たちは頷き、その中の一人が言った。
「サラ、あなたは、なぜシカゴへ来た?」
「昔、黒人に最も多く読まれていた新聞、シカゴ・ディフェンダーにこんな広告が載っていたと聞いています。『本紙は、すべての人々に北部へ来るよう呼び掛けます。善良で、酒を飲まず、勤勉であれば、生活の場はふんだんにあります。働きたくない人々は、監獄が世話します。三十日間の強制労働が終わる頃には、仕事のコツも身につくでしょう。神の造った国なら、どこでも南部よりましです。南部人にだまされてはいけません。今こそ自由人の仲間に加わりましょう。北部へおいでなさい』
 北部へおいでなさい、というところはテーブルの全員が、笑いながら合唱した。第一次大戦に参戦したアメリカでは、都市部の労働力に不足し、南部の黒人労働者をあてにしていた。彼らが金を稼ぎ南部へ戻ると、シカゴは《約束の地》として噂され始めた。 


「私は善良ではないし、バーボンも好きです。勤勉とは言えないが、こうやって皆さんはチャンスを下さった。監獄の世話になっても、仕事のコツは、自分で何とか見つけるつもりです」
 質問した記者も、ニヤリとした。歳のいった黒人女性が、コースターの上で、グラスを一回転させて訊いた。
「三ヵ月後にシカゴ・ブルース・フェスティバルが開催されるけど、出てみたいと思う?」
「ええ、出来れば…」
 私は質問した黒人女性の胸を見たが、名札もプレスバッジも付けていなかった。歳は六十から七十の間だろう。赤いワンピースに、ストライプの入ったグリーンのジャケットを羽織っている。ちぢれた長い髪は、数十本の細い束に編まれ、途中と末端に金色の丸い髪飾りで留められていた。彼女は回りを見渡して言った。
「サラの記者会見はこれでいいでしょう。あとは私とプライベートな話になるわ。みんな良い記事を書いてね」      
 驚いたことに、みんなは校長先生の話を聞く生徒みたいに頷くと、彼女を残し、席を立った。
私たちは向かい合い、彼女の前に琥珀色の新しいバーボンが、ダブルのグラスで置かれた。彼女は一口すすり、タバコに火を付けた。どこから話そうかと迷っているようだ。 
「申し遅れたわね。私はJ.Jクイーンよ。音楽雑誌で、ときどき批評を書いている。この頃は時代遅れの評論家とも言われているけど」 
名前は聞いたことがあった。ブルース・ボーイことB.Bキングと、若いときコンビを組んでいた従妹のクイーンか。
「B.Bキングは七十四歳になった今でも、演奏旅行を続けているけど、私は喉を痛めちまってね。ひとの歌を聴いちゃ、辛口の批評をしているの」
 B.Bキングは五十年代、霊歌とジャズの要素をいち早くブルースに取り入れた文字どおりの王様。
「J.Jのお名前は、伝説で聞いたことがあります」
 J.Jは咽ながら笑った。
「伝説ねえ、無理もないわ。あなたはまだ生まれていなかったんだもの。今、いくつ?」      
「三十五歳です」
「ブルースを歌い始めるには、ちょうどいい年令よ」
 ステージで演奏が始まった。ハーモニカとギターに合わせ、ピンクのスーツを着た黒人が歌いだした。
 J.Jはステージを向き、鼻をしかめた。          「あんなのは、まだブルースじゃない」
 私の方へ顔を向け、バーボンをもう一口すすり、呟くように言った。
「今日、あなたの歌を初めて聴き、心を動かされたわ」
「ありがとうございます」
 若い通訳も帰ったので、私は出来るだけ簡単に応えた。
「これから話すことは、年寄りの戯言と聞き流してもらっても構わない。そう、あなたはもう少し努力すれば…、と言うより何かのきっかけがあれば、本物のブルースが歌えるようになるわね」        
「アドバイスはどんな人から戴いても、有り難いものです」
「謙虚な気持ちは上達のもとよ。いいこと、ブルースは生半可なことを歌っても感動させることは出来ないの。自分の過去の苦しい体験から絞りだす本当の叫びが、聴く人のハートを打つ。詩を書いてみなさい。良く出来たら、曲はB.Bに頼んで上げる」
「夢のような話です」
「フェスティバルに出るのなら、借り物では駄目よ」
「私に出来るでしょうか?」
「何とも言えないけど、サラ、あなたは私の若いときに似ていると思う。歌は上手いけど、愛が感じられないのね」
 J.Jの眼は遠くを見つめ、タバコを持つ手は震えていた。
「…愛ですか?」              
「そう、愛よ。あなたは心底、男に惚れたことはある? 好きになることにブレーキを掛けていない?」
 翌日見た芸能新聞にJ.Jクイーンのコメントが載っていた。
『サラ・サクラという、日本人シンガーの歌を初めて聴いた。将来性はあるのに、まだハートから血を流していない。ブルースは理解することではない、魂の叫びを感じて響くことだ』            
 私はアパートの一室で記事を読みながら、二年前、日本を逃げ出すことになった事件を思い出していた。


            (2)


 白いリゾートマンションは、夜の闇の中で、悪徳政治家の巨大な墓石のように建っていた。            
 JR紀勢本線、串本駅から海へ一キロほど歩いたので、私の額とバストの谷間は、二月の中旬にもかかわらず汗が浮いていた。駅でチラッと見たテレビの内容が、発汗量を多くしているのは間違いない。    
 男は喉を鋭利な刃物で切られていると、アナウンサーは喋っていた。アラブの復讐劇ではあるまいし、おぞましいやり方に身震いがする。その男を知っていればなおさらだ。
私はその気持ちを和らげようと、汐の香に混じる梅の薫りを胸の底まで吸い込んだのに、役に立たなかった。                   
 乗っていた特急の『くろしお』は十時前に着いたから、今は十時二十分頃だろう。私は時刻を確認するため、バーキンの大型バッグを肩に掛け直した。私より若い同僚の美香と、三ヵ月ほど前シンガポールへ行った時、お揃いで買ったエルメスのバッグ。高い買い物だったが、大ぶりのトートバックをおまけにくれた。
客に貰った時計が、星明かりの下で、予測どおりの時刻を打っている。
 あの時の旅行は、今までで一番楽しかった。女同士だったから、気兼ねなんてものを見つけるのは、霧の夜空にUFOを探すようなものだった。 
 そもそも旅の始まりから、おかしな雰囲気だった。お互いパスポートを持っていなかったので、初めて申請した。出来上がると『四柱推命』に凝っていた美香は、私たちの新しいパスポートを占ってもらうと言って、どこかへ出掛けて行った。
返してもらって驚いた。幸運をもたらすからと言って、なぜか写真が入れ替わっていた。出発の数日前だったので、私たちはそのまま旅に出た。美形のハーフをナンパしたり、カジノで小銭を賭けたり、楽しい三日間を過ごした。
 だから今もバッグに入っているパスポートは、私の顔写真の下に美香の本名がサインされている。
            
 駅からタクシーを使わないように、マンションは玄関から入らないようにと言われていた。管理人は居ないけど、セキュリティーカメラが出入りする住人をチェックしているらしい。住人といっても、シーズンオフの平日の夜遅く、リタイアした数組の老夫婦に会うはずもないのに…。         
 用心深さは藤村の取り柄だった。四人の男の中で、いちばん頭が切れ、今度の計画も練り上げたらしい。詳細は知らされてなかったが、危ないことに間違いない。藤村の余命を二年余りと聞かされてなければ、ここまでのめり込んだかどうか分からない。
 マンションの地下駐車場の入口は、節約で切られている照明を嘲笑うかのように、漆黒の穴を開けていた。ここが地獄の一丁目なら、「火あぶり通り」か「釜茹で通り」の住居表示が出てもいいのにと、私は内心呟き、壁に沿ってスロープを下って行った。 
 駐車場には三台の車が停まっていた。旧式のメルセデスと中古のトヨタクラウン。奥にマツダの大型セダン。リタイアした夫婦に見栄などいらないのか、節約しているかのどちらかだろう。
 指示されていた通り、クラウンのフロント・フェンダーの裏をまさぐってみた。テープを張り付けてある。剥ぐと、キーが現われた。車のではなく、マンションの部屋の鍵。     
いかにも藤村のやりそうなことだった。車が外出していたら、この駐車場で待てという意味か。                   
 エレベーターは使わず、非常階段を四階まで歩くようにとも言われていた。数組の老夫婦は景観の良い上階に住んでいるから、途中出くわす危険はないと思うけど、スニーカーの音を立てさせずに歩く。油虫がよたよたと、爪先を掠めて横切った。                  
 藤村と他の三人は、『沙羅』という源氏名で働く私の客だった。四人の内で私の前に最初に現われたのは、喉を切られたと報道されていた五十過ぎの本田だった。
元銀行員だが、横領で捕まり三年間刑務所に入っていた。離婚しており、セックスの処理に私の働くソープランドを訪れた。行為そのものは早いのに、精力は強く、時間内にしつこく二回要求した。今はゼネコンの下請会社で経理係長をしており、最初の日、名刺まで置いていった。
三十を過ぎた私を指名してくる客は少ないので、本田はしつこさを除けば上客の部類だった。         
 リゾートマンションの非常階段には、外観と裏腹に貧相な裸電球が点いているだけで、鉄板にモルタルを流し込んだ粗末な階段とマッチしていた。
扉をそっと開け、四階のフロアに出た。廊下の照明は、扉の上の非常灯を除いて消されている。部屋は四〇五で、一番奥。広さは三LDKと聞いていた。
持ち主は大阪に住んでいて、夏と行楽シーズンにしか使わないらしい。やたらと指紋を付けるなとも言われていた。
 キーを差し込み、ロックを外した。暗い部屋へ滑り込み、扉を閉める。バッグから取り出したペンライトを点けた。中廊下の奥はダイニングになっているようだ。ドレープのカーテンが引かれているのを確かめ、壁のスイッチを入れた。
 私は、堪えていたものを放出するためにトイレに入った。出ると浴室を覗く。かなり広い。
思い出したくないが、仕事場の個室ほどの大きさだ。大人ふたり楽に入れるバスタブに、二坪の洗い場。隅にマットレスの代わりに、洗濯機が置いてあった。中にプラスチックの容器に入った洗剤も見える。
リゾマンのウリで各戸に温泉が引かれ、それをボイラーで加熱して使うようになっているらしい。    
バスタブに湯を入れる。カランは安物だった。湯と水の自動混合栓でなく、使う者はそれぞれのバルブを調整するようになっている。うっかり、お湯だけのバルブをひねると、熱湯が出てくる恐れもあった。                  
 洗面所で歯を磨く。外科医が手を洗うように、習慣になっている。コンドームを使うので、直接客のイチ物を銜えるわけではないのに、起きている間、十数回は歯ブラシを使った。湯を張りながら、部屋のチェックをする。
 キッチンの冷蔵庫は缶ビールだけ。ビルトインの棚には食器と缶詰。即席ラーメンもワン・パック。ウォークインのクローゼットには、女物のカーディガンとサマーセーター。ジーンズにポプリンのパンツ。色と型から五十過ぎの女性が、五つほど若く見せようとする努力も感じられる。
 あとは、男物の綿のパーカーと、水着にカットオフ・ジーンズ。オーナーの男性は、妻以外の女と来る時、水着もシャツも別の物を持ってくるのだろう。吊ってあるのはカモフラージュに違いない。
 居間は二十畳ほどで、合成皮革張りの応接セットが置いてあった。部屋の隅に大型のテレビ。ビデオデッキのデジタル時計は、十時五十分を点滅していた。
私はバスルームに戻り服を脱いだ。鏡に映る肢体は蛍光灯の明かりで、パブテスト教会派の授洗式にのぞむ、少女のように白い。美香に負けないところもあるとしたら、このパートだけか。      
 ソープランドの仕事は、文字通り肉体労働だ。人間の尊厳もプライドも捨てなければやっていけない。自分の口とバギナと両手と陰毛と…、全てを使って仕事をする。感情を伴わない、生きた死体を使い、男に悦楽を提供する。手抜きは許されない。
 ここで働く女の一年は、普通の女の十年間。SF映画ではないが、三年経過すると私たちは宇宙船で、三十年の旅をしたことになる。船を降りた途端、黒髪は白髪に変わる。  
 湯加減を見てバスタブに身を沈めた。仕事場で荒れた肌に、温泉特有のヌメリは心地よい。
段取り良くいけば、藤村のやってくるのは、早朝になるのだろう。四人が現金輸送車を襲ったのは後から聞いた。私の知っているのは、藤村がまとまったカネを作るという話だけだった。
 銀行の輸送車が襲われ、二億円強奪されたのをテレビで知ったのは一昨日。犯人は全員、目出し帽をかぶり、大阪の大正区で犯行に及んでいる。昨日の電話で、藤村はテレビを見たかと訊いた。そのあと、このマンションへ行くことを指示された。
 殺された本田の次に私の常連になったのは、瀬戸兄弟だった。二人は運転が得意らしく、弟の勝二の話では、車の窃盗で五年間刑務所に入っていたそうだ。体型は兄弟でも対照的で、弟はマッチョなのに兄の一也は、天日で百日間干した太刀魚みたいに細い。     
 入浴を済ませ備え付けのタオルで体を拭くと、バッグからスキンオイルを出し、全身にすり込んだ。
テーブルの上の携帯電話が、マナーモードで点滅始めた。つけたばかりのテレビを慌てて消し、携帯を耳に当てる。    
「サラか?」
「…はい」
「藤村や、マンションに着いたのか?」
「ええ」
「ちょっとトラブッたが、朝までには行く」
 本田さんのこと? と訊こうとしたが、電話はすぐに切れた。四人でカネを分けるようなことは聞いていた。分け前で揉めたのだろうか? どこにいるとも言わなかった。私の存在をさとられないように、こちらから電話を入れるのは固く禁じられていた。
 藤村が初めて私の前に現われたのは、去年の初夏だったから、関係は十ヵ月近くになる。瀬戸兄弟に連れられてきた藤村は、ガンに侵されており、医者から二年持てばいいと言われていた。
 訪れるのは決まって火曜日の夜遅く、最後の客の帰った後だった。月に二十万以上も使ってくれる客は藤村だけだったので、私も嬉しかった。四人の仲はどうも刑務所で出来たらしく、瀬戸兄弟が再開した車の窃盗を藤村も手伝っているようだった。
 私がお盆過ぎに体調を崩し、十日間ほど休んで店に出てくると、火曜日でもないのに藤村が待っていた。カネを作るから一緒になってくれと言った。こういう仕事をしていると、誰かに頼りたくなる。とくに藤村のように、私の身体を気遣い、風呂にしか入らずに帰る時もある人は、たとえ正業についていなくても…。
 私は迷った。借金はまだ二千万ほどあった。必死に頑張っても三年はかかる。全ては弟の所為だった。連帯保証人になって街の金融屋から借りた金を、ギャンブルですってしまい、強盗まで犯してしまった。
 ジャズ・シンガーを目指し、ライブ・スタジオでバックコーラスをやっていた私に目を付けたのは、プロモーターでなく、その金融屋、黒川の方だった。歌ではなくグラマラスな肢体がカネになると踏んだらしい。連帯保証人の責務として、ソープランドで働くことを強制された。 
 黒川には、たとえ裁判で毎月十万円の返済と判決が出ても、そんなハシタ金では我慢しないと言われた。歌えなくなるように、喉の筋肉を切ると脅された。
一度は死ぬことも考えたが、歌えず死ぬことの方がもっと辛かった。歌える可能性があるのなら、死んだ気で耐えてみようと決意した。その日から、私は私でなくなった。連中の言う、『フロに沈められた』わけだ。          
 わたしたち姉弟は、私が十歳の時から因島の親戚の家で育てられた。母子家庭の母親が死ねば、親戚を頼らざるを得ない。
歌の好きだった私は、中学を卒業すると、集団就職で大阪和泉市の紡績会社に入った。働きながら歌を学べると思ったから。
 四年間は辛抱をしたけど、冷蔵庫に入れ忘れたアジの開きが腐るように、徐々に挫折感を覚えた。
紡績会社を辞めると、給料の高いところを求め、夜の職場へ変わり、昼間は音楽教室と英会話スクールへ通った。クラブのボーイと同棲していたが、弟が親戚の家を逃げ出し、私の部屋に転がり込んできた時に終わった。        


 スキンオイルでマッサージを済ませた私は、冷蔵庫の缶ビールを取り出し一口飲んだ。テレビを点け、音量を落とす。
トイレや風呂を使っているのだから、そこまで気を使う必要はないのに、藤村の話では、テレビの音声はコンクリートの建物の中で増幅されると言う。刑務所の話だと思うけど、画面を眺めていて思わず途中から音量を上げた。  
『…殺された本田道夫さんは、建設会社に勤めており、死因は鋭利な刃物で喉を切られたもので、警察では原因究明に全力をそそいでいます』          
 場所は天王寺のラブホテルになっており、犯行が行なわれたのは今日の未明らしい。本田に貰った名刺も、道夫になっていた。私は、塗ったばかりのオイルも効果なく、肌がアボリジニーの年老いた農婦のようにカサついていくのを感じた。これでは美香に勝るものも無くなってしまう。 
 藤村がカネを作ると言った時、綺麗事で済むとは思っていなかった。私の悩んだのはそこの所だ。出来れば詐欺ぐらいにしてほしかった。現金輸送車を襲ったとき、警備員が一人重傷を負っている。瀬戸兄弟の仕業と聞いたけど、本田を殺したのも兄弟のうちのどちらかであってほしい。 
 携帯電話のランプが点滅し始め、呼び出し音に替わるバイブレーションで、テーブルのガラスが細かく振動した。私の気持ちも動揺する。                 
「…はい」
「サラか? 瀬戸や。藤村さんが怪我した。すぐ行くからロックを外しといてくれ」
「今、どこ?」
「マンションの近くや。頼むで」
 電話が切れた。藤村は自分からの電話以外は信用するなと言っていた。藤村の携帯に掛けてみる。電波の届かないところにいると、メッセージが繰り返されるばかり。電源が切られているのかもしれない。
 思いなおし、素早くジーンズに脚を突っ込んだ。タートルのセーターを身につけ、大きな胸を目立たせないように、ブルゾンを羽織った。玄関のドアの前に立って、ドアスコープから外を覗く。人の気配はない。
ロックを確かめ、ドアチェーンを掛ける。三分ほどじっとしていた。怪我したと言ったけど、どの程度なのだろう。瀬戸の声は兄の一也のようだった。   
 ドアスコープの向こう側に、一也の姿が現われた。凸レンズのせいで、痩せた顔は岸壁に釣り上げられたフグのように膨れている。薄暗い廊下に弟の勝二が藤村を背負って立っている。扉の向こう側から一也の囁き声がした。
「人に見られるとまずい。早く開けてくれ」
 私は躊躇したが、藤村の怪我も気になる。ロックを外し、ドアをそっと開けた。瀬戸兄弟がニヤついて立っている。勝二の背中に、背広の上着をひっ掛けたボストンバッグが見えた。舌打ちし、ドアを閉めようとする。二人は体当たりをかけてきた。チェーンがふっ飛び、私は尻餅をつく。         
 声を上げようとする口へ、タオルを巻いたパンチが入った。朦朧とする頭に、黒いビニール袋を被せられる。逆手を取られ、居間へ連れていかれた。勝二の声がした。
「…気付かれた様子はない」
「別に気付かれてもかまわねえ。そいつも殺っちまえばいいんだ」
 ソープランドでは喋らなかった伝法な言い方に、手慣れた暴力の匂いを嗅いだ。彼らの本性だろう。頭のビニール袋を取られ、素早く口に銀色の粘着テープを貼られる。
「これから俺の聞くことに、正直に答えろ。知っていたら頷き、知らなかったら首を横に振る。簡単なこった」
「そう、簡単なこった」
 勝二は一也の口真似をした。
「カネを天王寺のホテルで分ける事になっていた。約束の時間に行くと、本田は喉を切られ転がっていた。藤村の姿なんか影も形もない」
 私は首を激しく振った。
「嘘じゃない。好きな女と逃げるため、独り占めしたというわけだ」
 勝二は背負っていたバッグを下ろしながら言った。紺の古いゴルフズボンをはいており、ポケットの辺りがほつれている。私は朦朧とした頭で、必死に考えようとした。
 現金輸送車を襲って奪った二億円を、本田を殺して独り占めしたのだろうか。瀬戸兄弟はこのマンションをどうやって突き止めたのだろう。
「カネはここにあるのか?」
 私が俯いていると、勝二は兄の口真似をして訊いた。
「カネはここか?」
 私は首を横に振った。
「兄貴、このお妲さんは知らないらしい」
「もう少しで喋りたくなるさ」
「藤村もアホな奴だな。女もカネも無くしてしまうことになる」
「俺たちをみくびった」
「そうとも俺たちをみくびった」
「勝二、冷蔵庫を見てこい。喉が渇いた」
 一也はとっくりセーターの上に、キルトのダウン・ジャケットを羽織っていた。ヘソの辺りに、拳銃が差し込まれている。飲み残しの缶ビールと私を交互に見ながら言った。
「騒がなければ、口のテープを外してやってもいい」
 私は頷く。テープが口のまわりの産毛と一緒に剥がされた。思わず右手で口を拭く。勝二は缶ビールのプルトップを抜き一也に渡すと、自分も口に当て舌なめずりした。
「テープを取ると、俺のをしゃぶってくれた可愛い口も現われたな」
「…殴ったわね」
「殴ったのは俺じゃない、兄貴だ」
 私は一也を睨んだ。唇の左端が腫れ、内側の切れた所から血が滲み出ていた。
「全ては藤村のせいだ。現われたら言ってやるこったな、友達を裏切るなと」
「藤村さんはここに来ないわ」
「ほう、お妲さんは嘘をつくのも上手い。さっき風呂場を覗いてきたが、仕事をするにはええ場所やで」
「仕事は辞めたの。これからは犬のペニスも触らない!」
 私は、一也の雄鶏のトサカのような陰嚢と、勝二の船倉から出したばかりのバナナみたいな陰茎を嫌悪感と共に思い出した。職業にしていたときは我慢できた行為も、辞めたとたん拒絶反応が激しく、ジンマシンが出てきそう。
「サラ、おまえ個人のことはどうでもいいから、カネはどこだ?」
「ほんとに知らない。なんのこと言っているか、さっぱり分からない」
「兄貴、なんなら風呂場で訊いてやろうか?」  
 勝二の右手で金属性の音がした。飛び出したナイフの刃が、海中で反転した鮫の腹部のように白く光った。
「本田さんは喉を切られて殺されたと、テレビで言っていたよ」
 既にスポーツニュースに変わっている画面を顎で指した。
「殺ったと思っているのか? 兄貴、早くカネを貰ってズラかろうぜ」
「まあ待て、部屋を探して見つからなかったら、藤村が来るまで待つんだ」
 一也はソファーに座り拳銃を抜くと、ダウン・ジャケットの内ポケットから取り出した消音器を銃身に装着した。
「あなた達、藤村さんが来たらどうするつもり?」
「分かり切ったことや。死んでもらって、お妲さんと一発やる」
「勝二、向こうへ行って部屋中を探すんだ」
「兄貴、この女には何十万も払った」
「イカせてあげたでしょう?」
「元を取らせてもらう」
「勝二! あっちへ行ってろ」
 私は徐々に考えをまとめた。藤村が現われたら、瀬戸兄弟はわたしたちを殺し、カネを奪って逃げるつもりだ。現金輸送車を襲った犯人に、警察の捜査はまだ及んでいない。しかし本田の線から、三人が浮かんでくる可能性はある。
 ここで連中から逃げ出せば、関わりになることもない。しかしソープへ舞い戻り、あと数年間、見知らぬ男たちのセックス処理に携わらなければならない。これ以上あの仕事を続けるのは、自分を殺すことになりそうだ。 
どうせ死ぬなら、別のことに賭けてみたかった。それに藤村を好きになり始めている。あと二年の命を、全うさせてあげたい。私がここで楯になり、瀬戸兄弟を防げば、藤村は何とか切り抜けてくれそうな気がする。一也の声で意識を現実に戻された。 
「何を考えている? 藤村はもうすぐ現われる」
「殺されるためにノコノコ現われるとは思わない」
「本田を殺した以上、あいつはヤバイ」
「あなたの弟が殺したのでしょう?」
 私はそう信じたくて呟いた。 
「勝二にそれくらいの度胸はあるが、俺たちがホテルへ行ったときには死んでいた」
「本田さんの線から、警察はあなたたちを探り出すかもしれない…」
「すぐには判らん。判れば藤村も捕まる。カネも残らん。一番ヘタなクジや」
 一也はなぜか不気味に笑った。勝二が戻ってきた。
「兄貴、ここには隠すような場所は無いで」
「そんなら待つこった。藤村は必ず現われる」
「なあ兄貴、いいだろう? お妲さんと遊ぶの…」
「サラはなんと言うかな」
「お妲さんはOKしてくれるよな?」
 勝二が、フェロモンを嗅ぎ付けた眼で私を睨んだ。   
「仕事は辞めたの。自分でヤレば」
「サラ、知らん仲じゃあるまいし、勝二の面倒を見てやれ」
「いやよ、もう飽き飽きしたの」
 私はタバコを一本抜き、銜えた。
「藤村とは、本気で寝たことがあるのやろ?」
 勝二が私のタバコを取り上げ、吸い口を音をたて舐めると火をつけながら訊いた。           
「プライバシーには答えない」
「勝二、アホか。好きになれば男と女は寝るに決まっとる」
「俺は一度もこの女を満足させてない」
 勝二は紫煙に目を細めてこちらを睨んでいる。言い出すときかない男だ。
「サラ、勝二は溜まっとるらしい。カネを出すから遊んでやれ」
 一也は財布を取り出すと、数枚の紙幣を抜き取り、私の前に放った。時刻は十二時前になっている。藤村は朝方来るとしても、兄弟は欲望を充たすためなら、暴力を使うのもいとわない。私はお金に手を触れず言った。                  
「分かったわ、でも用意があるから少し待って」
「お妲さんがOKしたぞ。兄貴、俺が先にヤッても構わないか?」
 勝二はナイフを手のひらで弄んで言った。  
私は立ち上がった。素手でナイフと拳銃を持った二人の男を相手にするのは無謀すぎる。私の動作に、勝二もつられて傍に来た。馴れ馴れしくされるのはぞっとする。               
「楽しませてあげるから、ビールでも飲んで待ってて」
 そう言い残して私は浴室へ向かった。どうすれば良いか、知恵が浮かんでこない。キッチンにペティ・ナイフはあったけど、振り回したところで相手を興奮させるだけだろう。       
 浴槽には私の使った湯が残っていた。泣きそうになりながら、栓を抜き湯を流す。今は誰か気付いてくれるほうに望みを繋ぐ。カランを捻ってみた。熱湯が出てきてあわてて閉める。ボイラーの温度は、九十度近くまで上
がっていた。
排水栓を戻し、熱湯を満たし始めた。浴室を出て、隣の洗面所の引き出しを漁ってみる。安全剃刀を見つけた。刃を外し、震える手で下着に隠す。足音がしたので浴室へ戻る。勝二だった。 
「用意は出来たか?」
「まだよ、普段使ってないお風呂だから手間どるの」
「俺は熱い風呂は苦手だ。湯加減はぬるくな。もっとも入るかどうかわからんが…」
 ニヤつきながら勝二は浴室に入ってきて、浴槽に近付いた。
「用意が出来たら呼ぶから、出ていってちょうだい」
「そう邪険にするな。カネは払った」
 勝二は右手を浴槽の中に突っ込んだ。慌てて手を引っ込める。
「なななんだ、この熱さは!」
「後で水を入れて湯加減を調節するの。邪魔だから出ていって!」
「チェッ、早く用意しな。俺のあとは兄貴が待っている」
 しぶしぶ勝二が出ていった。私は洗濯機のコードをコンセントから抜き、洗濯機に脚を掛け両手でおもいきり引っ張った。本体から引き千切られたコードが手元に残る。剃刀の刃でゴムの被覆を削り取り、銅線を二センチほど剥出しにして左右に広げた。
 コードの長さは何とか浴槽まで届いた。半分ほど満ちた熱湯に、洗剤を投げ込み、水を加える。みるみる泡が立ち始めた。私は服を脱ぎ、ブラジャーとパンティーだけになった。盛り上がってくる泡を一すくいして、体に塗り付ける。
「もうええか?」      
 浴室の扉が開いた。ペンダントの付いた銀色のネックレスだけの勝二が、仁王立ちしていた。見たくないけど、巨大なペニスが揺れている。私は悟られないように務めて明るく言った。
「優しくしてくれたら、楽しませてあげる」
「マットなしで、アワ踊りか?」
 獲物を前に涎を垂らし、発情したマントヒヒみたいな顔になった。その顔に狡賢そうな皺が浮かんでいる。
「変なことを考えてるんじゃなかろうな?」
 右手の握り拳から、ナイフの刃をチラつかせる。
「そんなものを持ってると、サービスがしたくても出来ないよ」
「出来るさ、お妲さんもその気になれば」
 ナイフの切っ先を喉仏で止め、スーッと下へおろした。ブラジャーの左右のカップを真ん中で切られ、バストが跳ね出る。
「ほら、その気になった」
「シャワーを浴びたら、バスタブに入って」
 私は、バストを触りにきた手を振り払って言った。御座なりにシャワーを使い、勝二が浴槽へ入る。泡の上に顔だけを出した。ナイフを握っているのかどうか判らない。        
「今日はスペシャルコースにしてくれ」
 上気した顔をこちらへ向けた。
「分かったわ」
 私は切れたブラジャーを剥ぎ取り、スポンジを握った。浴槽の外から、勝二の身体を擦ってやる。三十前の張りのある筋肉が、スポンジを通して伝わってくる。チャンスは一度。身体の震えを隠すため、スポンジを自分の身体にも擦り付ける。
「一緒に入れよ」
 勝二は手で後からヒップを触った。     
「用意するから待って」   
 私は浴槽をひときわ泡立て、洗濯機の傍にいきバスタオルを掴んだ。中のコードを気付かれないようにコンセントに差し込む。剥出しの銅線が触れないように、右手でコードを持ち浴槽へ近寄った。
 勝二は、気持ち良さそうに眼を瞑っている。今だと思い、銅線を、勝二のこめかみに当てた。身体がピクンと揺れ、犬の遠吠えのような声を絞り出した。身体が小刻みに揺れ、泡もつられて同調する。硬直する肉体を確認して、銅線を浴槽に突っ込んだ。瞬間、震える絶叫が途切れ、電気も消えた。真っ暗やみの向こうから、一也の荒々しい足音がした。
 私は湯面を手で払った。ブレーカーが落ちたのか感電しない。浴槽へ飛び込み、気絶した勝二の裏側に身体を入れた。底に沈んだナイフに手が触れる。浴室の扉が開いた。
「勝二、どないした!」         
 私は湯の中でナイフのボタンを押した。刃が飛び出す。
「サラはどこや? 逃げたのか!」
 勝二の背中の裏で、震えて待った。一也は洗い場に降り近寄ってくる。鼻と鼻を突き合わせても判らない暗さ。
「勝二、どないした?」
 同じせりふなのに、原因を突き止めようと、用心深さが窺える。手が浴槽に入った。片方の手は拳銃を握っているはず。勝二の身体に触った瞬間、私は一也の手を掴み、思い切り引っ張った。身体を傾かせた一也の顔が、勝二の胸を打つ。ナイフを浴槽の上に突き上げ、思い切り下へ引き裂いた。
 手応えがあり、スプレーを使ったような液体が顔に噴き掛かる。とたんに、鈍い衝撃音が数回ひびいた。その都度、勝二の身体に衝撃が走る。一也が、崩れるようにタイルの床に倒れた。
私は三つ数え、浴槽から飛び出した。何かを踏む。滑るが構わず廊下へ出た。玄関へ走る。ノブを握り扉を押す。動かない。ノブは針金で巻かれ、逃げ出せない。
 ガラスの割れる音。浴室から誰かよろめき出た。私は踵を反すと、居間へ走った。ソファに突き当たり、もんどりうって反対側へ転げ落ちる。閃光と同時に、濡れ雑巾を叩くような鈍い音。ソファに不気味な振動。消音器を装着した拳銃の発射音だと分かるのに数秒かかった。
「…サラ、どこだ?」
 一也の声だが、器官に何か詰まったようにくぐもって喋っている。
「サラ、俺たちは…」
 私は震えてじっと耐えていた。これ以上どうすれば良いの。藤村の楯の役目は果たした。両腕でバストを抱える。殺されるなら、いい思いをさせてやった方が良かったのか。この仕事を始めて、客と恋愛感情を持ったのは優しい藤村だけ。他の男は、竹箒みたいに何も感じなかった。  
「サラ、お前は…」     
 ドサッと、カーペットに力尽きて崩れ落ちる音がした。私はそれから三分待ったのか、三時間待ったのか、真っ暗なのでなかなか感覚を戻せない。玄関の扉をノックする気配がした。 
「…だれ?」
 立ち上がる勇気もなく言った。再び扉を強くノックする音。
「サラ、俺だ。ドアを開けろ」
 藤村の声に間違いない。私は全身を支えていたつっかえ棒を外されたように、腰が砕け床に尻餅をついた。震えと寒気が、同時に襲ってくる。
「サラ、大丈夫か? ドアを開けろ」
 私はのろのろと立って、よろけて玄関に近寄った。針金を解きながら、背後を何度も見る。
「サラか?」
「はい」
「大丈夫か?」
「…ええ」
 涙がほとばしり出る。ノブに絡んだ針金を思うように外せない。
「どうした?」
「針金で縛ってあるの」
「そこをどいてろ」 
 私の後退りと同時に、藤村は体当たりを掛けた。針金が切れ、扉の開く音。廊下の薄明りの逆光に藤村の姿が浮かんだ。私はパンティーだけの姿にもかかわらず、胸に飛び込んだ。背中を擦ってくれる手に、思わず嗚咽を洩らす。
「どうした、何があった?」
「襲われそうになって…」
「電気も消えてる」
「ショートしてブレーカーが落ちたの」
「すぐ点けてやる」
「だめ、浴槽にコードを突っ込んでるから」
 しばらくして灯が点いた。私は素早く洗面所に脱いでいた服を身に着ける。部屋をチェックしていた藤村が、浴室を覗いた。
「ひどいざまだな」
 見たくなかったけど、私も浴室へ入った。勝二の胸と腹に穴が開き、アワも赤く染まっていた。
「仲の良い弟を撃つとは、一也も因果なものだ」
 私たちは居間へ戻った。カーペットに喉を切られた一也が、血溜まりに拳銃を握り締め、横たわっていた。
「どんな状況だった?」
「風呂に入りたいという勝二を、浴槽の中で感電させると、一也が飛んできたの。私は真っ暗の中で勝二の陰に隠れて、ナイフを振り回したら、一也の首を切ったらしい…」
「切られたはずみで、一也は弟を撃ったのだな。消音器の付いてない拳銃だったら、突き抜けた弾がサラに当たっていた」
「私が浴室から逃げ出したのに、居間まで追ってきて…。ソファの後に隠れ込んだら、発射音が聞こえ、しばらくして一也も倒れた」「喉の切傷が致命傷になった。それにしても良く頑張ったな」
「瀬戸兄弟はあなたを待っていたのよ。現われたらカネを取り戻して私たちを殺すと言って…。なぜ私がこのマンションに居るのを知ったのかしら?」
「一度、魚釣りに連中と来たことがあった。目星を付けたとしたらそんなところだろう」
「知り合いのマンションなの?」
「赤の他人さ。飲み屋で自慢話を聞いていて、拝借した」
「物音で上の階の人たち、気が付いたかもしれない。早くここを出ましょう」
 私の気はせくのに、藤村は何か考え事をしていた。
「車で来たのでしょう?」
「遠くに停めてある」    
「本田さんは誰に殺されたの?」
「俺ではない。それよりサラ、指紋の付いたものをバッグへ仕舞え。ここは兄弟喧嘩に見せるのが得策だ」
 私は飲みさしのビールを流しに捨て、空缶をバッグに仕舞った。浴室を覗き、触れたところはタオルで擦り、使えなくなったブラも持ち去る。居間で、藤村はタバコを吸っていた。
「これでサラがこの部屋に居た痕跡はない。警察は、兄弟喧嘩の末の殺しあいだと思うだろう」
「こんな所、早く出ましょう」
「サラ、よく頑張ってくれたな」 
 藤村の両手が優しく私の肩に掛かり、額に口づけをした。
「私が楯にならなければ、二人とも殺されると思って…」
 私は眼を瞑って応えた。藤村の身体がすっと離れた。
 突然、鳩尾に鈍いショックを受ける。意識が遠退いていく。何がどうなったかも、分からないまま…。
                        
 気付いたとき、私は床に倒れていた。 
 徐々に意識が戻ってきた。吐き気もする。頭を捩ると、誰か倒れていた。見覚えあるダウンジャケット。一也だ。
見上げる蛍光灯は、曇天の太陽みたいにぼやけている。涙のせいだと分かった。立とうとして、手に何か握っているのに気が付く。血の着いた勝二の飛び出しナイフ。床にのろのろと座り直した。
 一也をもう一度眺めると、拳銃を握っていた。藤村はどこへ行ったのだろう。ビデオのデジタル時計は、気を失ってから十分ほどしか経っていないのを知らせている。警察が踏み込んできたら、三人の立ち回りはすぐ理解できる構図になっていた。
 藤村は私を殴って気絶させた。なぜ、なぜ、なぜ…?
 かすかな臭いが、鼻についた。かすれるような音も伴っている。臭いのする方へよろめいて近付く。レンジは外され、ガスが漏れていた。コックをスパナのようなものでねじ切ってあり、止めるにも止められない。傍の電子ジャーのタイマーが動いていた。残りは五分ほど。血がたぎり、アドレナリンも毛穴から噴き出るように沸いてきた。
 私は素早くバッグをひっ掴む。気付くと手にまだナイフを握っている。柄をセーターで擦り、浴槽へ投げ入れた。勝二がトロンとした眼でこちらを見ている。持ち主に返したわけだ。
そっと扉を開け廊下へ出た。ドアクローザーのせいで、扉が自然に閉まる。脱兎のごとく非常階段を駆け降り、地下駐車場へ出た。確かにここは、火あぶりと、釜茹で通りだ。スロープを駆け上がり、携帯で一一九に電話を掛ける。すぐ、司令が出た。
「海辺の白いマンションでガス漏れです」 
 私はそれだけ言って電話を切った。時計を見た。午前三時前。駅へ向かうが、いまどき電車が走っているとも思われない。 
消防車のサイレンが遠くで聞こえた。マンションから二百メートルは離れていた。私は小走りで、畑の中の地道を抜けた。満開の梅の木が、星明かりで、ぼんぼりのように浮かび上がっているが、吐く息のほうが白い。
 突然、背後で腹まで響く爆発音が起こった。何かの破片が、近くまで飛んできて梅の花を散らした。振り返ると、白いマンションの四階付近のガラス窓が破れ、赤いチロチロするものも見える。消防車のライトが、マンションへ続くアスファルト道路を、S字に浮かび上がらせている。
 私は勘を頼りに裏道を通り、駅へ着いた。五十分待てば、新宮行きの始発電車に乗れると分かった。駅前を救急車やパトカーが走り、騒々しい。自動販売機で烏龍茶を買い、ベンチに座った。
 気付くのにもう少し遅れたら、瀬戸兄弟と一緒にあの世へ行くところだった。藤村が何を考えていたのか理解できないが、私を殺そうとしたのは間違いない。          
 現金輸送車の襲撃犯で生きているのは、藤村ひとり。こうなると、本田をホテルで殺害したのも藤村のような気もする。
 電車は空いていた。新宮に到着するのは、一時間十分後の早朝五時すぎ。座席に座ると眼を瞑ったのに、眠れそうになかった。疑念が次から次へと湧いてくる。私が藤村を愛しているほど、向こうは私を愛していなかったのは確かだった。
 今からどうしたら良いのか分からない。神戸山手通りのアパートは整理して逃げ出した。戻ったら金融屋の黒川は喜ぶだろうが、現われなければ極道の『商売人』に頼んで、追い込みを掛けるに違いない。捕まれば監視も厳しくなり、性のロボットとしてこき使われることになる。
 新宮駅に着いたら、上りの『くろしお』にすぐ乗れそうなので、とりあえず大阪へ戻ることにした。弁当と缶ビールを買って、再び電車に乗る。食事のあと、少し眠った。
 和歌山を過ぎて目を覚ました。習慣になっている歯磨きを済ませ、車内販売の新聞を買った。マンションのガス爆発はまだ載っていない。新宮駅で、私は何をするとも決めていなかったのに、今は気持ちも固まりつつあった。私を殺そうとした理由を、藤村の口から聞き出さねば気が済まない。       
 串本のマンションへ行かせたり、瀬戸兄弟と遭遇するように仕向けたのは、深いワケがあったはず。まず藤村を探さなければ。
 天王寺から地下鉄に乗り換え、江坂駅に着いたのは午前十時。藤村の運転免許証の住所は、駅に近い豊津町なのを覚えていた。マンションの下は、ファースト・フードの牛丼屋が入っていると言っていた。あの頃は私を愛していたのだろうか。
 地下鉄の駅を出て、東急ハンズに寄った。工具売場へいき、ペンチとマイナスのドライバーを買う。向こうが素手でも、これくらいのハンディは貰っても良いだろう。    
 牛丼屋の入っているマンションは直ぐに見つかった。駐車場が無いから、近くに借りているのかもしれない。
 牛丼屋に入った。朝食と昼食のはざまで、店内は三人の客だけ。学生らしいカップルと警備員が丼を掻き込んでいる。店員が注文を取りにきた。
「何にしましょう?」
「丼の、ご飯を少なめにお願いします」
 店員は復唱して、他に注文はないかと訊いた。
「このマンションに人を訪ねてきたけど、駐車場が無いのよ。皆さん、どこに停めているのかしら?」
「ああ、それならワンブロック向こうに、大井駐車場というのがあって、ここいらの人は皆そこへ停めていますよ。でも月極めだから一時駐車は出来ないと思いますが」
「あら、残念。他を見つけるしかないのね」
 私はカウンターの牛丼を半分残し外へ出た。マンションに管理人は居なく、ポストを調べたが藤村の名前はない。用心深いから本名を出しているとは思えない。各戸を一つずつ当たっていくのは危険すぎる。                    
 店員の教えてくれた駐車場近くのビルへ入り、三階の踊り場から下を見た。半分ほど詰まっていたが、藤村のいつも乗っている三菱のパジェロは見当らない。同じ車種はあるけど色が違う。
藤村の車は屋根を黒く塗っている。おまけに中央にはリングを立てており、走ると風切り音を発する。近くの電話ボックスに入り、電話帳でホテルを探した。新大阪駅の傍にビジネスホテルを見つけた。予約を入れ、再び地下鉄に乗った。
 ホテルでぐっすり眠ったので、元気が出てきた。夕方の四時近い。熱いシャワーを使い、下着を替える。このままどこかへ逃げ出したい気持ちもあるが、一生、負け犬で裏町を徘徊することになる。結果はどうであろうと、どうしても藤村にワケを訊きたい。
 新大阪駅の近くでレンタカーを借り、江坂に戻った時は午後九時を回っていた。大井駐車場に寄ってみる。藤村のパジェロはまだ戻っていない。私は路上に車を停め、駐車場を見下ろせるレジャービルに入った。二階は喫茶店になっている。ラックから夕刊を抜いて椅子に座った。                 
 串本のガス爆発事故も載っていた。瀬戸兄弟は指紋から身元も割れていた。警察は他にも関係者の居そうなコメントを出していたが、現金輸送車の襲撃犯とは結びつけていない。  
上階に住む住人に、犠牲者は出なかった模様だ。事前に一一九番に連絡してきた女の声を特定できてないと書いてあった。 
 五百円にしては水っぽいチーズケーキを食べ、レンタカーに戻った。さらに三時間待った。
既に夜中の零時を回っている。その時、旧型のパジェロが駐車場に入ってきた。水銀灯で屋根は黒く光っていた。どんな効用があるのか知らないけど、見覚えのある屋根にリングのアンテナ。メカに強い藤村が自慢にしていた装置だ。
ブレーキランプが消え、運転席から長身の男が降りてきた。髪をポニーテールに結んでいる。アノラックを羽織り、大型のショルダーバッグを引っ張りだし、肩に掛けた。藤村に間違いない。助手席からも、女性が一人降りてきた。
 アップした髪型に、高級そうなハーフコート。夜目にも美人だと分かる。美香だ。藤村は後のドアを開け、ジュラルミン製のトランクを出した。美香は私と同じエルメスのバーキンを無造作に持って、藤村の腕を取った。…そういうことか。それならワケを問いただすこともない。 
 二人は駐車場を出て、牛丼屋のあるマンションの方へ歩いて行く。私は喫茶店を出て、マンションの裏側へ回った。しばらくして、九階の端に灯が燈った。藤村の部屋の確率は高い。
私は駐車場に戻った。バッグからマイナスのドライバーを出し、パジェロの助手席の鍵穴へ差し込んだ。タオルを巻いたペンチで頭を叩く。
 何かの切れる音がした。把手を引いてドアを開けた。運転席の下にあるレバーを引き、ボンネットのフックを外す。周囲を見回したが、不審に思ってこちらを見ている者はいない。
ボンネットを開け、ペンライトでエンジンルームを覗いた。ブレーキオイルの容器を確認し、ペンチでパイプに切れ目を入れる。路上に停めてあるレンタカーに戻ったとき、汗をかいていた。 
 車の中で張り込みをして、三十分近く経った。午前一時過ぎ、藤村が金属性のトランクを提げて現われた。後にもう一人の男と腕を組んだ美香も続いている。手には、私とお揃いのバーキンのバッグ。
男はオールバックの髪型で、イタリア製のスーツを着てマフラーを首に巻いていた。金融屋の黒川に違いない。なぜ?  
 突然、バックミラーにパトカーの姿が浮かんだ。搭乗している警官の白いヘルメットが、対向車のライトでキラッと光った。私はエンジンを掛け何気なくその場を離れ、大通りへ出た。
暫らく待った。パジェロが慌てる様子もなく現われた。西へ向いて走りだす。五つ数えて後を尾ける。パジェロのウインドーはスモークガラスで覆われ、中の様子は分からない。このまま進めば、尼崎市か豊中インターチェンジへ出る。          
 私の予想に反し、阪神高速池田線へ入った。百キロ以上にスピードを上げた。直進して終点の池田出口まで行くようだ。関空が泉南市沖に出来たのか、夜間のこの辺りは車の量も少ない。今も数台、走っているだけ。出口に近付き、高速道路は下り坂になる。パジェロは坂を猛スピードで走り切った。
 事故はスローモーション映画を見ているようだった。結婚式場の隣のガソリンスタンドから出てきたタンクローリーが、中国自動車道へ入ろうと道路を横切った。パジェロのブレーキランプは、一瞬赤く光ったのに時速百キロ以上のスピードで、ローリー車のタンクにほぼ九十度で激突した。
 ガラスの割れる音と、衝撃音が私の車も揺るがす。横倒しになったローリー車に、パジェロは頭をタンクに突っ込み逆さまの格好で乗り上げている。タンクの裂目から油が洩れ、アスファルトを濡らし始めた。
ローリー車の運転手は、罠から逃げ出す熊のようにはい出て、喚きながら道路に飛び降りてきた。
 私が坂を下り終った時、小さな火が見えた。爆発するのは数十秒後だろう。パジェロの後部ドアが爆風で開いていた。私は急ブレーキを掛け、無意識に車を降り駆け寄った。フロントシートには、エアバッグの絡んだ上体が、ガラスにヒビを作り折れ曲がり、ハンドルに被さっていた。ホーンは助けを呼ぶように鳴り続けている。助手席は首から下だけしか確認できず、両手は不自然に曲がっている。
パジェロの中の二人に、動く気配は無かった。
 足元近くまで、漏れた油が流れてきていた。衝撃で飛び出したのか、バックが道路に転がっていた。
私は咄嗟に落ちていたバッグを拾い上げ、自分の車に駆け込んだ。
この状況で火の手が上がれば、ジャンボ機の火災を消す特殊消防車が必要だろう。
 私はアクセルを踏み込み、猛スピードで傍を離れた。 
それを待っていたように、背を焦がすような炎と爆風が車を前に押しやった。衝撃波でレンタカーの小さな車体が揺らいだ。辛うじて立て直す。
 左にカーブして国道171号線に入った。後に付いてくる車はいない。おそらく三時間は通行止めになるはず。助手席のバッグを横目で眺めた。私が美香とバーキンのバッグを買った時、おまけにくれたトートバッグ。子ヤギでも入っているのか大きく膨らんでいる。
 私は西宮市から湾岸線を走り、大阪市内へ回ると、梅田へ出て新御堂筋を北上、ビジネスホテルに戻った。冬の夜のドライブとしては、パリ・ダカールレースの砂漠ほど熱く、過激で、非情なものだった。  
 事故の詳報が伝えられ始めたのは、夕方になってからだった。炭化した死体は二つ。藤村と美香の焼け焦げた免許証とパスポートから、身元が確認された。私が死んだことになった。 
美香のパスポートの名前は、私になっているのだから仕方がない。爆風で飛び散った紙幣から、藤村は現金輸送車襲撃の主犯とも推測されたし、瀬戸兄弟や喉を切られた本田が、共犯者だったことも関連づけられて報道されていた。      
 私のこと以外、捜査本部の仕事はほぼ的を射ていた。いや、抜けていることもあった。 
車の衝突でパジェロから飛び出し、アスファルトの路上で私に拾われたトートバッグの中に、八千万円の札束が入っていたことだ。このバッグに、これだけのお金が入っているとは思ってもみなかった。                  
 大金を処分するのは怪しまれるし、警察へ届けたらヤブヘビになってしまう。私はもうこの世に存在しないのだから、天下晴れて自由の身になったのだ。これからは誰にもわずらわされず、自由に生きたい。アメリカへ渡って、ジャズの勉強を本格的にしてみよう。 
自由への歓喜は、夏の入道雲のように沸き上がってきたのに、男への不信感は化石になった恐竜の卵みたいに、芯まで固まっていた。今後、男を愛するようになることは、月から地球へ、携帯電話を掛けるほどの可能性もなかった。


 就労ビザはひょんな事から手に入った。
私は梅田の米国シティ銀行へ、大金を持ち込み、相続したと言い、口座を作ってもらった。面接した女性のシニアディレクターは、小切手帳とデビット・カードを作るからと言いながら、「この二つがあれば、アメリカではドル紙幣が無くても暮らせるからね。しかし音楽修行で長期滞在になるのなら、ビザが必要よ。あなた持っているの?」
「いえ、持ってないです」
銀髪のシニアディレクターは、一瞬ズルそうな表情を浮かべた。
「こんな大金を持っていても、すぐには使い切れないわね。半分定期預金にしない?」
「はあ…?」
「私の主人が、アメリカ領事館に努めているから、ビザも簡単に出せるよ」と続けた。渡りに船、いやお金だ。つづいて
「モバイルバンキングにすれば、米国どこにいても、口座の収支は分かるから。暗証番号を作って」
今すぐらしい。私は祖母の名前と、生年月日を組み合わせ、持参したノートパソコンに打ち込んだ。
 結局私は50万ドルの一年定期預金を組んだ。残りのお金でも、四、五年は十分暮らせる。
 私は、三週間後、LA行きの飛行機に飛び乗った。
    
                                    (3)
             
 私はJ.Jクイーンの批評をもう一度読み直し、コーヒーをすすった。
今日、仕事は休みだけど、明日はグラミー賞歌手のケブ・モーの前座で歌う。大勢の客は来るが、ほとんどモー目当てなのに間違いない。チャンスではあるが、ブーイングの嵐で、ステージを降りることになるかも知れない。
 夕方からは、トレーナーのウイリーとレッスンが待っている。終わればスポーツジムで、一時間ほど泳ぐつもりでいた。体重は五十八キロだから、もう少し絞らなければならない。
 ウイリーのことが頭をよぎった。四十過ぎの白人で、一度離婚している。ジュリアードを出たから、音楽の知識は豊富で、教えられることも多い。私の他にも数人の個人レッスンを抱え、気ままに暮らしているが、関心は私にあるらしい。
 レッスン以外に、プライベートな付き合いを申し込まれることもあった。その都度やんわりと断ってはいるが、このままではレッスンを断るか、もっと深い関係になるかの瀬戸際だった。人柄が良いのは、他の生徒にも同じだろう。いっときの遊び相手なら、なりたくない。
人種差別の残る国で、売れない日本の歌手と一生連れ添うような男なぞ、めったにいるとは思われない。
 明くる日、早めにクラブへ行った。シカゴのノース・サイドには洒落た高級クラブが集中している。キングストン・マインもそうしたクラブの一つで、そのはす向かいに私の歌うB.L.U.E.Sがある。
このあたりはリンカーン・パーク地区で治安もまあまあの方だ。ただ少し残念なのは、黒人の客が少ない。 
 マネージャーが寄ってきて、日曜日に教会で霊歌を歌ってくれと言った。私にこんな依頼が来るというのは、この大都会で少しは認められたのだろうか。ボランティアでも快く了解しておいた。
 ステージでは今日のメインゲストの、ケブ・モーのバックバンドが音を合わせていた。三曲ほど歌うらしい。
モーが現われた。スキンヘッドの黒人で、ビジネスマンみたいなスーツが気の弱そうな男に見せていた。ギタリストに何か注文を付けると、マイクを持ちいきなり歌いだした。
気の弱そうな男が途端に変身する。神の使いのように、メッセージを伝える。ブルースは黒人の唄だとつくづく思う。私はちょっぴり弱気の虫になった。
 しかしその夜のステージは、私にとっても最高の出来だった。上手いゲストが一緒だと、ライバル意識も出てくる。モーは最後の曲で、私をステージに呼び、掛け合いで歌った。お客は大喜びで盛り上がり、床を踏みならし拍手してくれた。
 演奏も終わり、私たちはバーへ寄った。モーがスタッフを紹介していると、マネージャーも現われ、私に耳打ちした。    
「サラ、面会人だ。アジア人で、様子がおかしい。何かトラブルでもあるのなら言ってくれ。ボディーガードもすぐ駆け付ける」    
私は不安になった。歌を聴いた客に付きまとわれることもあったから。マネージャーの話では、入口付近に居ると言っていたのに見当らない。
扉を開けて外を見た。はす向かいのキングストン・マインから観光客が出てくるところだった。日本人のブルース・ギタリストも演奏することのある大きなライブハウスで、演出も凝っている。
「…サラ」  
 後から声をかけられた。振り向くと、ダウンライトの蔭に、コートの衿を立てた男が立っていた。ソフト帽を目深に被っているので、人相は判らない。                  
「サラ、…藤村だ」  
 私は一瞬逃げ出そうとした。奥から髭面のマネージャーが、レスラーのようなボディーガードを従えてこちらに近付いてくるのを見て、辛うじて思いとどまった。           
「藤村さん?」
「そうだ」 
 コートの衿から覗く襟首に髪の毛は見えない。ソフト帽の陰に浮かぶ骨張った顔は、少し苦しそうに見える。
「ほんとに藤村さん? 死んだのじゃなかったの?」
 自分の声も震えているのが分かる。マネージャーが傍にきて訊いた。
「サラ、大丈夫か?」
「ええ、昔の知り合いです」   
 確信はなかったがそう答えた。頷いてマネージャーたちは去っていく。
「サラ、昨日の新聞に、ここで歌っていると載っていた。話したいこともあって探していた」     
 私は混乱していた。恨みはあったが、事故で死んだ時、すべてにシャッターを降ろし、閉ざしてしまっている。思い出したくない過去だ。ソープランドから逃げ出せたのと、八千万円入りのバッグを拾ったのは幸運だったが…。
 走馬灯のようにくるくる回る頭の中を、自分の意志では止められない。こういう場合、何から訊いたら良いのだろう。
「ずいぶんやつれているようだけど…」
「ガンの末期だ。もう長くはない。抗癌剤で頭の毛も無くなった」
 嫌でも思い出した。二年の命と聞いて、関わり合いになった藤村との関係。一度は愛した男に裏切られ、殺してやろうと思い、本当に実行した私。恨みつらみはお互い様か。私は無性に話を聴きたくなった。
「ここではなんだから、着替えてきます」
 私は楽屋に飛び込み、素早くジーンズとトレーナーに着替え、入口へ戻った。藤村は壁に背中を預け、今にも座り込みそうになり、辛うじて立っている。                 
「大丈夫なの?」 
「近くのホテルに泊まっている」       
 二人を乗せたタクシーが着いたのは、『ホテルニッコー』の前だった。エレベーターまで歩くのも辛そうだ。私は藤村の腕を肩に担ぎ、九階の部屋に入った。
「お医者を呼んでもらいましょうか?」
「無駄なことはしなくてもいい。それよりウイスキーを入れてくれ」
 私はベッドの上のバッグから覗いているウイスキーの壜を取り出した。
「飲んでも大丈夫なの?」
「クスリ以外はな」 
 藤村は足を投げ出して椅子に座り、私を見ていた。二つのグラスに、冷凍室の氷を入れスコッチをそそぐ。
「…サラ、美しくなったな」
 私は聞こえない振りをして訊いた。
「アメリカにはいつごろ?」
「一年前だ」 
「えっ! そんなに前から。何が起こったの? 私を串本のマンションで殺そうとしてから」
「あれは練りに練った計画だった」
「ガス爆発させることも?」
「いや、もっと前から…」 
 藤村は苦しそうにウイスキーを飲むと、帽子を取りタバコを銜えた。見事に禿げていた。私が驚いて何もしなかったので、仕方なく自分で火を付けた。        
「もっと前というのは?」
「現金輸送車を襲う話を持ってきたのは、もともと金融屋の黒川だった。あいつは暴力団のノミ屋に多額の借金が有り、資金不足は本業の金融も続けていけそうにないくらいだった。サラの債権も組織へ売り渡そうとしていた」
「どういうこと?」 
「サラの借金の債権を暴力団に買ってもらう。つまり取り立て主は黒川じゃなく、暴力団に代わるということだ。そうなると、組織はサラをもっと有効に使おうとする」
「有効に?」
「ソープで働く女は、組織にとって商品さ。一日に何回転もさせて、早く元を取ろうとする」
 私はやっと理解でき、背筋が寒くなった。
「黒川は、俺とサラの仲を知り、そうならないためにもカネを欲しいと言った」
「私はどっちにしろ性のロボットになるところだったのね?」
「俺は組織へサラが売られる前に助けたかった。といっても、借金の肩代わりをするようなゼニはない。黒川の話に乗ることにした」 
藤村の顔色は、ウイスキーのせいで、いくぶん赤みを帯びてきた。私は、震える手でグラスを口へ運んだ。続きの話を訊きたい欲望と、そうでない気持ちで。
「黒川が美香に惚れているのは分かっていた。しかし美香も別の金融屋に多額のカネを借りていた」
 ソープで働く女に、遊び心で来るような者はいない。みんな経済的な理由で働く。家族のため、親のため、男のため、自分のため。「俺は、美香とサラのパスポートの写真を入れ替える知恵を出した」
「四柱推命で占うと、私の運勢が良いので、美香は顔写真を取り替えてと言ったのに…」
「美香は、顔写真を取り替えた免許証も持ち、一人二役を演じていた。サラが死ねば、美香はこの世に居なくなることだからな。借金取りから追い込まれることも無くなる」
「でも、そんな簡単に写真を入れ替えることは可能なの?」
「偽造は、簡単なことではないが、難しくはない」
「知らぬが仏は、私だけだったのね? 美香はそんな事、おくびにもださなかったのに。それにしても、黒川はあなたと私の関係を疑わなかったのかしら?」
「俺は、カネの方が好きだと言った。美香に保険を掛け、サラに死んで貰えば、多額の保険金も入るとね。半分は俺が貰う」
「美香の借金の清算と保険金も手に入るわけね?」
「そうすると黒川は、その話に異常なほど乗り気になった。サラを殺せば、すべて丸く納まると考えたのさ」 
「あなたは、本心で言ったの?」
「練りに練った計画と言っただろう。喰いつきそうな話をしただけさ。すると黒川は、秘かに自分の運転免許証も俺の写真と入れ替えた」
「何か魂胆があったのね?」
「そういうこと。俺に何かあれば、黒川もこの世に居ないことになり、借金の追い込みも掛からない」
 藤村は、ウイスキーを口に含んだのに、半分は膝の上にしたたり落ちた。相当に辛そう。それでも聴かずにはおられない。
「黒川の役目は?」
「現金輸送車のルートを探り出し、携帯で俺たちをバックアップしていた。ところが奪ったカネは、二億しかなかったものであいつは慌てた」
「いったい、いくら奪うつもりだったの?」
「黒川は三億と踏んでいた。みんなに分け前を払うと、組織への支払いに足らないわけだ。そこでカネを俺と二人だけで分ける算段をした。美香を使って本田をホテルへおびき出し、俺の行く前に殺してしまった」
「美香が殺したの?」
「おそらく二人でだろう。俺はヤバイと思って姿を消すと、あとから来た瀬戸兄弟を、串本のマンションに行けばカネが手に入ると、そそのかした」
「奪ったお金はどこに置いていたの?」
「俺のパジェロに移し替えていた」
「黒川も知っていたのでしょう?」
「ああ、二人だけな」
「あなたを殺して独り占めにしようと考えなかったのかしら?」
「当然、こっちはお見通しだった。それでパジェロにちょっと細工をしていた」                
 ブレーキオイルのパイプに切れ目を入れたのは私だったが、まだ話すわけにはいかない。 
「どんな細工を?」
「ドップラー・センサーを利用した」
「どういうこと?」
「速度の変化で、センサーが反応するようにしたのだ。現金を詰めたジュラルミンのトランクは、車の床に固定され、暗唱番号を打ち込まなければ、トランクの中の発火装置が働いて紙幣を燃やすように仕組んでいた」
「それがドップラー?」
「ちがう。ドップラー効果は物体が移動しているとき、その物体の発生する電流や音の振動数に変化を来すことをいう」
「良く分からない」
「身近な例なら、走ってくる列車の警笛を聞いていると、通過前は高い音で、通過後は低い音に変わる。これをセンサーに応用した。つまり、俺はバジェロの速度が、時速一四〇キロにならないと、ジュラルミンのトランクが床から離れないようにロックしていた」
「車の屋根のリングは、ひょっとしたらセンサーに関係あるのね?」
「よく分かったな。リングは速度を感知し、トランクのロックと連動していた」
「だったら、暗証番号を知っていて、時速一四〇キロまで速度を上げないと、キャッシュを拝めないというわけね?」
「八千万円を除いてな」
「どういう意味?」
「黒川とは、江坂の俺の部屋でカネを分けた。一億ずつ。俺はジュラルミンのトランクに詰め、黒川は一緒にきていた美香のでかいバッグに納めた。そのあと、梅田まで送ってくれと言ったから、駐車場に来たら、黒川は拳銃をちらつかせて言った」
 私がブレーキオイルのパイプに切り込みを入れた後、見張っていたときに違いない。       
「驚いたことに、美香まで、消音器の着いた拳銃を構えていた。黒川は『串本のガス爆発で、サラのことが新聞に載っていない』と、難癖をつけてきた」
「あれは一体どういうことだったの? 瀬戸兄弟が黒川にそそのかされ、マンションに来たのは分かるけど」
「俺の本当の狙いは、サラをこの世から消してしまうことだった。歌うことに未練のあるサラを、行きたがっていたアメリカで再出発させるには、過去を断ち切る必要がある。しかし中途半端なやり方では、ダーティーな世界から逃げ出せないし、黒川にもすぐ感付かれる。まず、俺たちの関係を本気で断ち切らなければまずい。串本のマンションで、わざと気絶させ、逃げ出すのを待っていたのは、そのためだ」
「私の逃げ出すのを見ていたのね?」
「もし間に合いそうになかったら、飛び込んで引っ張り出すつもりだった」
「なぜ、そんな手間の掛かることを?」   
「黒川は車の中から、双眼鏡でマンションを監視していた。俺と瀬戸兄弟を争わせ、最後はガス爆発で吹き飛ばせと、両方に指示していた。俺たちがやられたら、心中にでもデッチあげていたに違いない」
「どちらにしても、私の死ぬことを望んでいたのね?」
「美香が死んだことになるからな。俺は、瀬戸兄弟もお陀仏だと言って、黒川と大阪へ戻ってきた」
「しかし、夕刊を見ても私の死体が無いので黒川は不審に思ったのね?」
「そうだ、サラの事を確かめる必要があった。駐車場で黒川と美香は拳銃を俺に向け、『サラの死体が見つかるまでは全額渡すわけにいかない。お前の分け前だ』と言って、二千万、ビニールの袋に入れて投げやがった。ムカッときたが、パトカーが現われたから、その場は静かにしていた」
「それから二人はあなたのパジェロで逃げたのね?」
「車にセンサーを細工していたのが、二人にとって仇となった。黒川はトランクのロックを外そうと、車のスピードを上げた。しかしそっちに気を取られ、事故を起こした」
「藤村さんが、運転していたことになっていたわね?」
「黒川は、運転免許証の顔写真に、俺の写真を貼って偽造していたせいでな」
 グラスを口に持っていった藤村の唇の端から、ウイスキーが糸を引いて流れ落ちた。
「二人が死んで、私たちはこの世から居なくなったわけ?」
「その通り」
「私のことを訊かないの?」             
「いろいろ考えた。串本のマンションから逃げ出すのは確認したが、後は分からなかった。俺に復讐しに現われるかと、期待はしていた。そしたら全てを話せるからな。突然消えてしまったから、たぶんアメリカへ渡ったのじゃないかと、俺もLAにやってきた」
「一年前のことね?」  
「ガンの症状が進み、半年ほどLAの病院に入院して何とか持ちなおしたのに、また再発した。サラの消息を調べても分からず、やっとインストラクターを見つけだし、ミシシッピ州へ行った事を知った。一週間前のことだ。そこからシカゴは推測できたが、この大都会でどこに居るのか分からなかった。ガンのせいで二千万のカネも使い果し、焦っていたら…」          
「芸能新聞の記事を見たのね?」
「ああ、それで今日のステージを見せてもらった」
「どうだった?」
 私の胸は張り裂けそうだった。続きの言葉を聴きたくないけど、聴かずにはおられない。      
「俺はワルで、何一つ世間の為にはならなかった。しかし今日は誇りに思ったよ。楯になって守った女が、ブルースの世界で頂点へ登ろうとしているのを見たからな」     
 突然、私の心の中で何かがキレた。涙がとどめもなく溢れてくる。復讐してやろうと、藤村のマンションへ行ったこと。パジェロのブレーキオイルのパイプに傷を付けたこと。八千万円を拾ったこと。藤村の楯になろうと、一度は愛したのに、最後は憎しみだけを思い出に、アメリカに逃げた私。この二年間の償いをどのようにして返せばいいのだろう。
「藤村さん、ありがとう。どうやってこの恩に報いたら良いか、…今は思いつかない。あなたが、一日でも長生きできるように、私、頑張ってみる」 
「もう、出来ることは何も無い。サラの歌う姿を見ただけで充分さ」
 私は藤村の優しさに泣きながら、しがみついた。
 容態が急変したのはその後だった。飲んだウイスキーを吐き、意識不明になった。慌てた私はホテルに頼み、救急車を呼んだ。付き添って乗った車の中で、私はブレーキパイプのことや事故現場で拾ったバッグの事を喋った。殺したいほど憎んだことも。しかし藤村の顔は、穏やかに微笑んでいるだけだった。  
私は、許して、許して、と繰り返しながら、身体を擦り続けた。     
 努力は、嵐のミシガン湖に浮かべる笹舟のように、はかなかった。藤村は明くる日、市民病院で亡くなった。私は気の抜けたような身体で、モントローズ墓地へ出向いた。ここは日本人とセルビア人の為に火葬場を併設していて、花崗岩で造られた大きなモニュメントも建っている。
三月の冷たい風は、私の気持ちを嘲笑うかのようにコートをはたいた。            
 五日間休み、クラブへ出ると、J.Jクイーンの短い伝言が置いてあった。
『詩は創っていますか? 六月はすぐですよ』
六月の最初の木曜日から始まる、シカゴ・ブルース・フェスティバルの事を言っている。
 私は何とか二日間で書き上げた。        


六月に入るとブルースの季節だ。どのライブハウスも、連日、おのぼりさんや観光客でごった返す。私の歌も、J.Jが少し手を加え、曲をB.Bキングに創ってもらった。
ボイス・トレーナーのウイリーと特訓をやったお陰で、なんとか間に合った。三日間クラブで歌ったけど、評判は良かった。でも爆発的というわけではない。
 六月十日、フェスティバルの最終日、出番は突然回ってきた。ケブ・モーがどうしてもジョイントでやろうと言ってくれたのだ。以前のライブで気に入ってくれたらしい。前日、お互いの特徴を出せるように少しばかりアレンジをした。      


ブルースは幼くして別れたママの心    
ブルースは私を試そうとしたロード(神)の心
  
はやく再生を気遣う友の声を聞かせて
おくれ



ブルースは好きな人を裏切った苦い傷痕 
ブルースはデルタを吹き抜ける非情な風の傷痕



はやく傷痕を隠せるくすりを見つけ塗っておくれ



ブルースは若いときに間違いを犯した者を悲しむ唄
ブルースは歳を取っても間違いを繰り返す者を嗤う唄



はやく送っておくれ充分働いた私を黄泉の国へ
              
 フェスティバルが終わると、シカゴは一年中でもっとも素晴らしい季節になる。ミシガン湖からの爽やかな風を受け、私はモントローズ墓地へ来ていた。
手に持った夕刊には、昨日のステージの批評が、J.Jクイーンの手記で載っていた。
『グラミー賞歌手、ケブ・モーのステージは、すばらしい出来だった。それに比べれば、賞を取ったコンパクト・ディスクなど、どこのアマチュアかと思うほどの出来だ。もっとも、昨日のステージは彼だけの功績ではない。一緒に歌ったサラ・サクラの情感溢れる声が、今でも私の耳に残っている。聴衆は十年に一度の、すばらしい経験を持ったに違いない。どんな高名な牧師の説教を聴いて、レイ・チャールズと一緒にゴスペルを歌っても、昨日の感動に勝るものはない。それほどサラのハートからは本物の血が流れていた。シカゴのブルース・ファンはまた貴重な宝物を得た』
 
 私は新聞を藤村の墓石の前に置き、小石を乗せた。呟きが自然に出てきた。       
「藤村さん、私はしばらく旅に出ます。ミシシッピ州の教会で歌う仕事を貰ったからです。南部は今から一番厳しい季節になりますが、デルタで働く黒人農民は、奴隷で連れて来られて以来働き続けています。私の歌うブルースに、彼らを少しでも癒す力があるのなら、南部の夏も少しは涼しく感じられるでしょう。拾ったお金は、まだ半分以上残っていましたから、ここへ来るとき、全米癌撲滅基金へ寄付してきました。秋にはもう一度この墓地を訪れます」 
 
 私は北の方角を確認した。     


「シカゴは『ウインディ・シティ』と呼ばれるほど、風の強い街です。特に冬の冷たい風は、同じ都会でも、大阪で経験できないような厳しさです。藤村さんの墓石の北側に、少し大きめの墓石を建ててもらいます。いずれ私が入るつもりですが、それまでは楯代わりになるでしょう。私を守ってくれた藤村さんへのささやかなお礼です。もう行かねばなりません。ただ一つだけ聴きたかったのは、パジェロのブレーキオイルのパイプは破れたのでしょうか、それともスピードの出し過ぎで事故に繋がったのでしょうか?」
 答えは期待していなかった。私は初夏の青空を見上げた。ジェット機が一機飛び抜け、飛行雲を曳いた。
『サラ、お前はまっすぐ進むのだ。みんなの待っているところへ』
 天から聞こえたような気がして、私は上に向かって叫んだ。
「イエス、ロード(神様)!」
 緑の爽やかな風が、墓地を出る私の頬をそっと撫でた。


                                                                            <了>