観音さん

 ウォーキングしながら大和川を渡り、大阪市へ
我孫子は若い時、五年ほど住んでいた。そのころ地下鉄御堂筋線は、アビコ駅が終点。大阪市立大学が近くにあり、学生寮は相当痛んでみすぼらしいモノだった。
 ここで有名なのは「あびこ観音寺」
初詣もするが、節分の厄除護摩加持祈祷では、大勢の参拝客で賑わう。そこで私も地元で初詣。

同じ境内にある銅像の頭を撫でる。そしてその手で、自分の頭を撫でる。息子や娘を連れて行き、毎年続いたイベントだった。

この銅像は「びんずるさん」で、頭以外も手や胸、足を触り、その手を自分の部位へ添わす。頭が良くなり、患部が治ると言われている。

ここまで来ると、寄って見たいところがあった。
この建物は、むかし木造の二階建て文化住宅だった。私の住んでいたのは、三畳と六畳の畳敷き、台所、トイレの狭い一室。当時の文化住宅は、おおかたこんなモノだった。
一階に住んでいたが、ある日の夕方、隣で同棲していた若いカップルのタバコの不始末で火事に。当然消防車は飛んできたが、半分以上が消失、他は水浸し。
私たち家族の部屋は、押し入れに布団を押し込んでいたので、壁からの延焼は少なかったが、天井裏からの火で、全焼に近く、おまけに三歳の昼寝していた娘は、煙に巻かれていた。
危うく家人が抱かかえ逃げ出してきたが、間一髪のところだった。
その夜から三日間、町内の会館に寝泊まりしながら、仕事と家探しを始める。
建売を買うことも考えたが、知り合いの不動産屋の息子が、自分が住む地区の空き家を紹介してくれ、やっと落ち着いた。
しかしそこから怒涛の仕事をやり始める。
ナビもない時代、朝、中古のクラウンを満タンにし、見積もりの束を握りしめ、大阪市内は勿論、奈良、京都、宝塚、神戸市内、等々午前中に100km走ることも珍しくなかった。

その頃、私の支えは、火事で焼け残った息子のために買った、五月人形の鎧兜。ケースは焼けていたが、鋳物の鎧兜は免れた。
あれから40年、「あびこ観音さん」と鎧兜は、遠い昔と今を繋ぐ、心の架け橋と言ってもいいだろう。